川崎七福神の恵比須さま「大楽院」がある上丸子八幡町。となりの町には「丸子山王日枝神社」もあり、毎年、昔ながらの伝統行事が盛んに行われています。お祭りで町内をねり歩く「子どもみこし」は、夏の風物詩でもあります。
そんな上丸子八幡町は、子育てがしやすい、子どもたちが住みやすい町No.1を目指して活動しています。浴衣の着付け講習会、盆踊りの練習、納涼盆踊り大会、町別対抗運動会、お餅つきなどなど、季節のイベントが盛りだくさん。子どもと一緒に参加すると楽しさ100倍です!ママ世代の役員も活躍中です。ぜひお気軽にご参加ください!
※とうよこ沿線より借用
旧山本質店の面々、前列右から三番目が主人の山本周五郎、その左が娘の敬子さん。その後ろのメガネが当時38歳の清水三十六(サトム)※当時は質屋の番頭で後の新進作家 ペンネーム山本周五郎です
※とうよこ沿線より借用
丸子橋を昭和40年に訪問された当時の昭和皇后陛下と美智子妃殿下の貴重な写真です。
※とうよこ沿線より借用
多摩川スピードウェイは、日本及びアジア初のパーマネントサーキットとして1936年6月に開業。一周1,200m、幅20mのオーバルダートトラックコースに、多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造となっていました。メインスタンドの収容人数は数千人程度で、サーキット敷地内の最大収容人数は3万人とされており、東京横浜電鉄が敷地を提供するとともに、同社や三菱グループの株主が出資、運営は東京横浜電鉄が行っていました。
1937年4月発行の『東横・目蒲・玉川電車
沿線案内』には「面積四萬坪、コース一哩、三萬人を収容する大スタンド等施設完備せる東洋一の自動車大競走場」と記載されていました。1920年までは多摩川の自然堤防があった場所であり、自然堤防上には青木根集落として30軒ほどの家がありました。多摩川の築堤建設のため、青木根集落の住民は中原区上丸子天神町に移ったのです。
1936年6月7日には日本初の本格的な自動車レースとなった第1回全国自動車競走大会が開催され、カーチスやフォードなどの外国車のみならず、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦し、多摩川沿いという当時においては都心から遠く離れた地での開催にもかかわらず1万人以上の観客を集めました。
優勝したのは当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げた「オオタ号」。このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」で参戦しましたが、事故によりリタイアしています。なお、当日、スタンドからレースを観戦していた日産社長、鮎川義介は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期したと言われています。
第2回大会が同年10月に、第3回大会が翌1937年5月に開催され、ブガッティやメルセデスベンツ、MGやヴォクスホールなど様々な外国車も参戦し、観客数も増え続けるなど開催が軌道に乗ったものの、日中戦争の戦局激化を受けた娯楽自粛に伴い1938年4月17日に開催された第4回大会を最後に自動車レースは行われなくなってしまいました。
オートバイのレースは、第二次世界大戦開戦後も草レースが開催されていたものの、ガソリンの配給制移行などを受けてやがては終了を余儀なくされましたが、1945年に戦争が終了しガソリンが市中に出回るようになると、ほどなくオートバイのレースが行われるようになりました。その後も草レースの会場としてしばらくの間使用され続けましたが、レース場として廃止された時期は不明なのです。
今でこそ多摩川下流部はかなり直線的な流路になっていますが、かつての下流域は激しく蛇行し洪水のたびに流路を変えてきました。江戸時代から積み重ねられた人工的な河川改修により現在の流路に付け替えられたのですが、蛇行していた当時は一つの村だったのに流路変更により川の両岸に分断された所がたくさん生まれてしまいました。
このため現在の多摩川の左岸(北岸・東京都側)と右岸(南岸・神奈川県側)には、かつては地続きの同じ村だったことを示す同じ地名が点々と残っています。(上流方面から)布田・宇奈根・二子・野毛・等々力・沼部・丸子…(二子と沼部は東京都側の町名としては現存しませんが駅名ほかに残っています)。
現在は各所で再開発が進んでかなり分かりにくくなっていますが、多摩川両岸の地図をよく見ると蛇行していた頃の旧河道跡があちこちに認められます。多摩川の流路が変わっても村と村の境界は基本的に古代の流路通りの線引きのままで、それが明治維新後の東京府(現在の東京都)と神奈川県の府県境にも引き継がれたため、明治初期までの府県境は多摩川の両岸を激しく行き来する複雑なものでした。当時は多摩川に架かる橋も今より遥かに少なく、同じ村でも向こう岸に孤立した事実上の飛び地がたくさんありました。
あまりに行政上の不便が大きすぎる上に両府県の水利や漁業権をめぐる対立も激化したため、1912年(明治45)に「東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律」が国会で成立し、多摩川の流路を境界とする現在の都県境が確定しました。なおその後のさらなる河川改修で流路が微妙に変わっているため、現在の都県境は多摩川の流路の中心線からは随所でかなりズレています。多摩川をはさんで、東京都と神奈川県に同じ地名があるのはこのような経緯によります。
ただし中世の武蔵国橘樹(たちばな)郡にあった「丸子郷」の場合は、近代の人為的な河川改修によるものではなく室町時代後期~江戸時代初期に自然の力で多摩川の流路が古代より南寄りに動いて丸子郷を真ん中で分断したもののようです。江戸時代初期の元禄年間には「橘樹郡上丸子村」(現在の川崎市中原区)と「荏原郡下丸子村」(現在の東京都大田区)に分割されています。多摩川両岸に残る「丸子」の地名だけがかつてここが地続きの一つの村だった歴史を伝えていますが、多摩川の流路が変わり別々の帰属になってからすでに300年以上が経過しています。
神奈川県橘樹郡中原村大字上丸子(青木根・松原・山谷・上・下の集落)
★各家は四角内の数字で表示。各家の職業などの情報はその数字ごとに掲載。
1. 青木(熊) 下駄屋。孫は移転してとび職。
2. 青木(孫) 家作持ち。孫は丸子通2丁目で青木酒店。
3. 青木枡之助 農業・土建業。息子弥太郎が天神町在住。
4. 高山(島) 砂利採取。本人は従軍、妻は96歳で健在。
6. 高山周五郎 農業・砂利採取。孫は勤め人・駄菓子屋。
8. 高山(豊) 農業・砂利採取。孫は天神町でとび職・植木屋・白百合荘を経営。
9. 青木(長) あめや
10. 中村勝五郎 農業。子孫は天神町で家作持ち貸ビル業。
13. 中村(角) 農業・アサリのむき身屋。現在は天神町で中村稠が貸ビル業。
14. 中村重五郎 大地主。現在は天神町で貸ビル業。
15. 青木(富) 農業。チョンマゲシッチャンといわれ、チョンマゲで一人暮らし。
17. 石井(みなみ) 農業。南の方に住んでいたので通称ミナミ。孫は丸子通二丁目でとび職。
18. 坂井(よつや) 四ッ角にあったので通称ヨツヤ。子孫は天神町で町工場を経営。
19. 石井(鉄) たばこ・塩小売。丸子通2丁目で同じ商売。
20. 遠藤(篭や) 息子戦死。丸子通1丁目に養子湯浅一郎。
21. 青木(ひがし) 農業。東の方に住んでいたので通称ヒガシ。3代目博が丸子通2丁目で建材屋。
22. 荻野仁三郎 舟大工。息子二郎、孫重光。天神町で勤め人。
24. 海方 砂利採取。息子藤吉、孫幸男、天神町で勤め人。
25. 中村 新しい家に住んでいたので通称ニイヤと呼んだ。
27. 石井 農業。通称権ぱち。息子誠、天神町で勤め人。
28. 青木徳太郎 農業。通称ウメダ。天神町で青木建設。
29. 川口(安) 砂利採取。息子直吉、天神町に在住。
31. 青木(市) 農業。通称カライッチャン。131青木の兄。
34. 白井鹿之助 農業。丸子通2丁目で勤め人、白井元。
35. 青木昇平 たびや。丸子通2丁目で青木米店を経営。
36. 安藤市五郎 たびや・農業。孫幸男丸子通1丁目在住。
39. 浴場 現在はなくなっている。子孫も不明。
40. 浅見徳太郎 やきいも屋。孫重太郎、丸子通2で教師。
41. 榎本 居酒屋たまや。丸子通1丁目、プロ野球巨人軍寮の場所。
43. 白井金太郎 砂利採取。孫信夫、丸子通1丁目で勤め人。
44. 内海(床屋) 息子二郎、丸子通1丁目にいたが死亡。
45. 青木又蔵 いかけや。英雄が丸子通2丁目で青木工業。
46. 大貫重太郎 提灯・傘屋。上丸子の人と沼部の人と3人で渡舟場の元締。丸子通2丁目に照夫。
50. 野村文五郎(5代目) ほしかや。野村家の総本家で、ホンダナと呼ばれていた。現在は7代目。
2代目は八百八を作った人で有名。★「とうよこ沿線物語・祐天寺編」と「同・武蔵小杉編」参照。
51. 重田繁松 農業。通称かね八。居酒屋をやったこともあるが現在丸子通1丁目でパン屋。
52. 白井(作) 砂利採取。43白井の弟。現在孫は勤め人。
53. 山本要次郎 代々大楽院の世話人。息子国義、孫和夫、新丸子東1丁目で質屋・バッティングセンター。
54. 重田田佐太郎 長男が丸子通1丁目で栄喜堂、次男が八幡町でとび職。
55. 山本譲吉 団子屋。丸子通1丁目で山本稔が勤め人。
57. 白井種吉 農業後、自転車屋。丸子通1丁目に映之助。
59. 野村幾太郎 畳や。孫耕一が八幡町で勤め人。
60. 野村利造 農業・砂利採取。通称向店「モコダナ」 本店前の店の意味。孫は八幡町で野村製作所。
61. 矢作米吉 農業・竹細工。現在は丸子通2丁目で幸子が荻巳荘を経営。
62. 鈴丸 川魚料理屋鈴半。長男は戦死、次男太一は山王町1丁目で東京の区役所に勤務して定年退職。
65. 野村(吉) 現在丸子通1丁目、野村藤雄。
67. 山本与四郎 通称名、山の家「ヤマノウチ」。
68. 山本伊三郎 とび職。息子は八幡町で大工と東急勤務。
69. 山本銀次郎 農業・酒小売業。孫久夫、八幡町で居酒屋。
73. 小金井かめ 角にあったので「角カメ」。農業・舟頭で最後の舟頭といわれ、八幡町で元治が勤め人。
74. 神宮盛太郎 農業・砂利採取。孫信夫が八幡町で勤め人。
75. 大山重八 農業・屋根屋。長男仲八は八幡町で建材屋。次男栄八は土建業「大山組」の社長。
76. 白井米吉 農業。次男が新丸子町で不動産屋、3男は向河原で町工場経営。
77. 白井佐十郎 みかんの仲買、76の弟。孫八幡町で勤め人。
78. 山本留五郎 豆腐屋。長男吉太大郎が丸子通2丁目でGスタンド、次男角次郎丸子通1丁目で豆腐屋。
80. 村瀬 大工。孫武夫が八幡町で左官屋。
81. 野村要蔵 農業・砂利採取。息子が八幡町で運送業。
83. 柏木徳太郎 米搗き場。息子平八は八幡町で司法書士。
84. 榎本初五郎 農業。孫新太郎が八幡町で勤め人。
86. 小金井市五郎 農業。光三が八幡町在住スーパー経営。
87. 田村鎌吉 農業・多摩川の漁師。息子は八幡町で勤め人。
90. 野村正吉 農業・舟頭の責任者。現在野村八十が八幡町で野村造園建設経営。町会長
92. 白井子之吉 農業。現在は八幡町でGスタンド経営。
94. 野村 かいどが長いので長大門という。81の兄。息子は丸子通1丁目で土建業。
95. 小金井伝蔵 農業。天理教信者。孫博山王町で勤め人。
96. 山本甚五郎 居酒屋三好屋。養子が八幡町で米屋経営。
97. 山本友蔵 農業・馬喰。馬力もやっていた。八幡町で長男は花屋、次男はマッサージ師。
98. 山本由蔵 菰(こも)の仲買。孫が八幡町で勤め人。
101. 白井太郎兵衛 日枝神社飛射祭の的を作る家柄。
103. 山本錬吉 農業後、飲食業。河川工事の代払いをやっていたが、息子文吉が新丸子東1丁目に。
104. 小金井新蔵 農業。数馬様といわれた。孫が運送業。
105. 山本 操 日枝神社の宮司。丹波様といわれた家柄。現宮司は長男山本五郎。
106. 山本力蔵 丹波様の分家で宮仕えを務めていた。孫一雄は丸子通1丁目で勤め人。飛射的作りの家柄。
107. 榎本平三郎 農業。平馬様と呼ばれた家柄。現在は山王町1丁目で平二郎が不動産賃貸業。
108. 榎本権太郎 農業。山王町1丁目で孫房男が紙工業。
109. 大山直三郎 農業。中原町町会議員を務めた。息子政治が山王町1丁目に在住、飛射祭の役員。
111. 白井菊三郎 農業。孫菊男が山王町1丁目で勤め人。
112 柏木太右衛門 農業。飛射祭の家で孫好文がタバコ屋。
113. 大山勝五郎 農業。多摩川の入口にあり通称「坂口」。本人は戦死、娘福子が住み、勤め人。
114. 重田九十郎 農業・酒たばこ屋。息子清重が貸ビル業。
115. 山本綱五郎 ニイヤと呼ぶ。孫が山王町1丁目で勤め人。
116. 山本政太郎 農業。孫泰明が山王町1丁目で酒店経営。
117. 隠居屋敷 屋敷の中に柿の木があったが当時既に無住。
122. 横山松五郎 農業。息子岩太郎が山王町1丁目で石屋。
123. 重田繁松 茅葺屋根屋。小新家。孫勝行が重田組経営。
124. 柏木重治 農業・馬力。孫康博が川崎市水道局勤務。
125. 矢作豊次郎 農業・砂利採取。息子光雄が瓦職人。
127. 矢作杉五郎 農業。息子富二雄が山王町で瓦職人の頭。
128. 小金井愛助 多摩川の漁師。息子保雄が山王町で鳶職。
129. 白井重久 水車小屋を持って、農業の人に貸していた。
130. 青木新助 馬喰。息子の妻・娘・孫が丸子通で勤め人。
131. 青木伊三郎 農業・舟頭。丸子通2丁目に定吉が住む。
132. 中村 魚富という魚の行商。息子小一は八幡町に在住。